元吉原

[元吉原]

(Wikipedia)


江戸の人口の男女比は圧倒的に男性が多かったと考えられる。
江戸中期において人口の3分の2が男性という記録がある。
  (江戸初期にはもっと男性が多かったと推測される)

そのような時代背景の中で、江戸市中に遊女屋が点在して営業を始めるように
なった。

江戸幕府は江戸城の大普請を進める一方で、武家屋敷の整備など周辺の
都市機能を全国を支配する都市として高める必要があった。
そのために、庶民は移転などを強制されることが多くあり、なかでも遊女屋
などはたびたび移転を求められた。

そのあまりの多さに困った遊女屋は、遊廓の設置を陳情し始めた。
当初、幕府は相手にもしなかった。

数度の陳情の後、慶長17年(1612年)、元誓願寺前で遊女屋を営む
庄司甚右衛門(元は駿府の娼家の主人)を代表として、陳情した際に、
  ・客を一晩のみ泊めて、連泊を許さない。
  ・偽られて売られてきた娘は、調査して親元に返す。
  ・犯罪者などは届け出る。
という3つの条件で陳情した結果、受理された。

陳情から5年後の元和3年(1617年)に、幕府は甚右衛門を惣名主として
江戸初の遊郭、「葭原」の設置を許可した。

このとき幕府が甚右衛門らに提供した土地は、現在の日本橋人形町にあたる
(当時の)海岸に近い、葦屋町とよばれる2丁(約220m)四方の区画で、
葦の茂る、当時の江戸全体からすれば僻地であった。
「吉原」の名はここから来ている。


その後の吉原遊廓の歴史は、江戸市中で幕府の許可なく営業する違法な遊女屋
(それらが集まったところを岡場所と呼んだ)との競争を繰り返した歴史でも
ある。





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