[新吉原]
(Wikipedia)
江戸市中は拡大しつづけ、大名の江戸屋敷も吉原に隣接するようになって
いた。
そのような中で、明暦2年(1656年)10月に幕府は吉原の移転を命じる。
候補地は浅草寺裏の日本堤か、本所であった。
吉原側はこのままの営業を嘆願したが聞き入れられず、結局、浅草寺裏の
日本堤への移転に同意した。
この際に北町奉行・石谷貞清は以下の便宜を図っている。
・吉原の営業できる土地を5割り増し(3丁四方)
・夜の営業を許可
・風呂屋者(私娼)を抱える風呂屋(遊郭の競合)を200軒取り潰し
・周辺の火事・祭への対応を免除
・15,000両の賦与
周辺火事への対応免除は、逆に吉原で火事が発生した場合に周りから応援が
得られず、吉原が全焼する場合が多かったという皮肉な結果をもたらした。