ビタミンのはなし(2) ビタミンB1:鈴木梅太郎とフンク

[ビタミンのはなし(2) ビタミンB1:鈴木梅太郎とフンク]

(データ・マックス  2010年2月8日)(伊藤仁先生)


江戸時代、とくに華美な生活が流行った元禄時代に、江戸を中心に脚気
(かっけ)が流行した。
もちろん、当時は脚気という病名はなく、箱根を越えて故郷に帰るとたちまち
治ることから『江戸わずらい』として江戸の風土病と考えられていた。


明治時代、脚気は結核と並んで2大国民病とされ、年間1万人から3万人もの
死者を記録している。

とくに海軍では被害が甚大で、272日間の遠洋航海で376名中169名(実に
45%)が脚気になり、25名が死亡したという記録が残っている。
海軍軍医の高木兼寛は、その原因を栄養障害ではないかと推測、1884年に
海軍の食事を和食中心から洋食に切り替えた。
そして287日間の航海実験をしたところ、船員333名中、脚気を発症したのは
わずか16名(4%)に激減、死者は皆無であったという。

それに対して陸軍では、相変わらず白米中心の食事で多数の脚気患者と
死亡者を出していた。
陸軍の軍医は森林太郎で、脚気は細菌でひき起こされるものと主張していた。
その結果、とくに日露戦争では、陸軍は脚気によって2万7,000人を超える
死者を出すことになる。

高木兼寛は東京慈恵会医科大学(現在の慈恵医科大学)の創始者であり、
日本最初の看護学校の創立者でもある。

森林太郎は、後の文豪・森鴎外その人だ。


日本だけでなく、アジアでも広く見られる脚気の研究では、オランダの
エイクマンやグリーンスが、白米に含まれる必須栄養素(予防因子)が不足
しているという考えに到達した。


鈴木梅太郎は1910年、米ヌカのなかの栄養素を結晶状に精製し、1912年には
ドイツの学会誌に『オリザニン』という名称で発表した。

前年の1911 年、ポーランドのフンクはこれと類似した物質を「生命に必要な
アミン」という意味で『ビタミン』と名付けて発表している。
フンクは、当時の難病であるクル病、壊血病、ペラグラなどが未知の栄養素
欠乏症ではないかと類推、母国・ポーランドから移住したフランス、ドイツ、
イギリス、さらにアメリカを経て研究生活をつづけたのである。
彼はみごとにビタミンの命名者として歴史に名前を刻むことになった。





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