今日は何の日:故・力道山 満39歳没

[力道山]

(Wikipedia)


力道山(1924年11月14日〜1963年12月15日)は、日本のプロレスラー。
本名・戸籍名・日本名:百田光浩。
旧名・出生名・朝鮮名:金信洛(김신락)。
大相撲の力士出身。
身長176cm、体重116kg。



<生い立ち>
日本統治時代の朝鮮・咸鏡南道洪原郡新豊里(現在の北朝鮮統治範囲)で
朝鮮人の両親のもとに生まれた。

力道山は15歳で来日する時、既に結婚し子供もいた。
その後、2002年の釜山アジア大会で、力道山の孫娘が北朝鮮の重量挙げ
監督としてエントリーして話題になった。



<力士時代>
二所ノ関部屋に入門。
1940年5月場所初土俵、1946年11月場所に入幕。

1949年5月場所に関脇に昇進するが、1950年9月場所前に突然、自ら髷を
切り廃業。
民族の壁に阻まれて大関に昇進できなかったため廃業を決意したとも言い、
師匠の二所ノ関親方との間には金銭トラブルも起こしていたとされる。


相撲界から引退時、興行師兼スカウトの百田巳之吉の戸籍に長男として入籍。

プロレスラーの百田義浩(元プロレスリング・ノア取締役)、百田光雄
(現役・元プロレスリング・ノア副社長)は実息。
芸者・綾の息子である。



<プロレス転身>
ナイトクラブでの喧嘩が元でハワイ出身の日系人レスラーのハロルド坂田
(トシ東郷)と知り合い意気投合した。
1951年9月30日からアメリカのフリーメイソン系慈善団体「シュライン」が
当時日本を占領下に置いていた連合国軍への慰問と障害者のチャリティーを
兼ねて、母国からボビー・ブランズら6人のレスラーを招きプロレスを開催
していた。
ハロルド坂田もこの一員だった。
力道山は坂田の勧めで練習を見に行き、プロレス転向を決意し、港区芝に
あったシュライナーズ・クラブで指導を受けるようになった。



<刺殺事件の顛末>
酩酊するほど飲みながら女性と話していた力道山の横を暴力団員村田勝志が
通り掛る際、力道山が「足を踏まれた」と、後ろから村田の襟首をつかんだ。
村田は踏んでいなかったので、「踏んだ覚えはない」と反論するが、口論と
なり、「あんたみたいな図体の男がそんなところに立っていたらぶつかって
当然」と言い放つ。
この時、村田は懐中に手をやる。
それを見て、刃物を取り出すのではないかと思った力道山が、「わかった。
仲直りしよう」と言い出す。
それに対し村田は「こんな事されて俺の立場がない」と仲直りを拒否。
和解を諦めた力道山は村田の顎を拳で突き飛ばし、壁に激突した村田は顎が
ガクガクになった。
さらに力道山は村田の上に馬乗りになり激しく殴打する。
村田は「殺される」と思い、ナイフを抜いて下から左下腹部を刺した。
ナイフの刃は根元まで刺さったが、出血は衣服の上に染み出ていなかったと
いう。

1日目は応急手当を受け帰宅。
その後、村田の所属団体の長小林楠扶がリキアパート内の力道山宅を謝罪に
訪問。
「申し訳ない。この責任は自分がとる」と頭を下げたところ、力道山も
「うん、うん、わかったよ」と声をしぼり出すようにいったという。

2日目に症状が悪化したため入院、外科医に山王病院へ来てもらい十数針縫う
手術を受け成功。
山王病院は産科婦人科が中心の病院だが、力道山がここを選んだのは、親しい
医者のいる病院で話が表に出ないようしたためという。
側近たちは、赤坂にある有名な外科病院である前田外科への入院を勧めたが、
力道山は嫌がったとのこと。

7日目に腹膜炎による腸閉塞を理由に午後2時30分再手術。
これも成功したと報告されるが、その約6時間後の午後の9時50分ごろに
力道山は死亡した。
死因は正式には穿孔性化膿性腹膜炎とされている。


しかしながら他にも諸説ある。
ある説は、手術の際、麻酔を担当した外科医が、筋弛緩剤注射した後に
気管内チューブの気管挿管を失敗し窒息したという医療事故のためという。
村田勝志を裁く裁判の際、死因究明のため提出されたカルテの中に麻酔に
関するものは「紛失した」として出されなかったという。

また他の説は力道山の腹膜炎はほぼ完治に近い状態まで回復していたが、
腹膜炎を患っている期間は食事は勿論のこと、飲水も厳しく制限される状態に
あった。
ところが食欲が非常に旺盛であった力道山は、空腹に耐えきれず、付き人に
行きつけの寿司屋に寿司を注文するように命令し、ついでに酒も買わせた。
届けられた寿司と酒を飲食して空腹感を抑えた力道山であった。
が、飲食した生ものである寿司やアルコールが完全に完治しきっていなかった
患部に障り、これを以って病状が急変、急死したという。
力道山が最初の手術後、サイダーやコーラ等を飲用しているのを目にしたと
いう者は多く、上記のようなこともありうる話だが確証はない。

ただし、力道山夫人の田中敬子は「自分や看護師が昼夜交代で付き添っていた
ので絶対にありません」と否定している。



<実業家として>
実業家としても成功し、赤坂に自らの住居も兼ねた高級アパートの「リキ・
アパート」、ナイトクラブの「クラブ・リキ」、さらに「リキマンション」と
名づけたマンションの奔りである高級賃貸住宅を建てた。

渋谷には「リキ・スポーツパレス」という地上9階建てのプロレスの常設
会場を作り、その中には「リキトルコ」やビリヤード場、ボウリング場などを
併設した「リキレストラン」を建設した。

ボクシングジム経営にも進出している。

死の少し前には、相模湖畔に、自動車レース場・射撃場・室内スケート
リンク・モーテル等レジャー施設を併設した大規模なゴルフ場、「レーク
サイド・カントリークラブ」の建設を始めていた。
広大な土地を購入し、会員権を販売し、一部工事にも取りかかったが、
死去により未完に終わった。
跡地は売却されて、現在、さがみ湖リゾート プレジャーフォレスト(旧称・
さがみ湖ピクニックランド)となっている。

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