あまりの悪臭に飛行機から下ろされた乗客

[あまりの悪臭に飛行機から下ろされた乗客]

(JBpress  2018年7月6日)


「他の乗客が吐いたり気絶したりするほどの臭いで飛行機は緊急着陸、人々は
不潔だと思ったが、男性は恐ろしい病魔に侵されていた・・・」
先週のニューズウィーク記事をご覧になった方も多いかと思います。

要するに、飛行機に「凄まじく臭い」乗客が乗ってきて、あまりの臭気に
飛行機が不時着するというなかなかない事態が5月にスペイン領カナリア
諸島発アムステルダム行きのオランダのエアライン上で発生したというの
です。

不幸なことに、この臭気の元となった男性、ロシア人のロックギタリスト
だったそうですが、6月25日に死亡したとなると、笑い話ではすまなく
なります。

さらに「壊死性感染症」のために死亡となると、「2次感染は?」と
シリアスに心配せざるを得ません。



<なぜ2次感染の心配がないのか?>
この不幸な男性は、アンドレイ・スチリン氏(享年58)、かつては世界的に
活躍したミュージシャンだったそうです。

5月29日に彼が一歩飛行機に足を踏み入れると、機内はざわつき始め、やがて
叫び声が上がり、乗客たちは口や鼻を押さえるハンカチ類を探し始め、やがて
嘔吐したり、失神までする乗客まで出始めたそうです。

文字通りパニック状態となって、急遽ポルトガルのファロ空港に緊急着陸、
準備されていた救急車で搬送されたそうです。

着陸までの間はトイレに押し込められ、香水を振りまいたりして対処した
ものの、そんなことではどうにも収まらなかったらしい。
そこまでの臭気とは、いったい何なのでしょう?

スペイン領カナリア諸島というと分かりにくいですが、その実モロッコの
南端を西に進んだ大西洋上に浮かぶ列島です。
ジブラルタルと「パリ・ダカール・ラリー」で有名なセネガルの首都
ダカールを結んだ真ん中あたり、要するにアフリカで、北緯で言うと台北の
少し北、トロピカルな常夏の島に遊んだギタリストが、何らかの怪我をした
らしく、現地の医者に受診したらしい。

そこでは「よくある感染症」と言われ、保険金の支払いさえ拒否されたと
いうのですが・・・。

飛行機にチェックインした時点では、スチリン氏の病状は著しく悪化して
おり、前記のような騒ぎとなり、さらにその原因が「壊死性感染症」と
聞かされてしまうと・・・。

航空会社は「同じ便に乗り合わせた乗客・乗員」に感染のリスクはないと
念を押したそうですが、感染症であれば、病原菌がいるはずです。

どうして<感染のリスクはない>などと言い切れるのか。
不審に思うほうが人情としては自然でしょう。

でも実は、この点に関しては航空機会社の言い分は正しいのです。
感染の心配はない。と言うより、実は私たちはみな、今現在の時点で、
同じ菌に感染しているのです。
「そんな、全身から悪臭を発するとんでもない壊死性の病原菌などに、感染
していてたまるものか」と言われる方が多いと思いますが、スチリン氏を
襲った病魔、実は私たちの腸内に普通にいる「常在菌」が真犯人なのです。



<ガス壊疽の恐怖>
報道には定かに記されていませんが、スチリン氏が罹患したのは「クロスト
リジウム筋壊死」通称「ガス壊疽」であったと思われます。

病原菌は「クロストリジウム ペルフリンゲンス」通称「ウェルシュ菌」と
呼ばれる桿菌で、成人の腸内に普通に存在する嫌気性の生物です。

分かりやすく言うなら、人間のおならが臭いのは、この悪玉菌の出すガスが
原因となっている。
善玉菌の代表がビフィズス菌なら、悪玉の代表がこのウェルシュ菌という
私たちに身近な微生物が、この恐ろしい病気を引き起こしてしまう。

どうしてそんなことになってしまったのでしょう?

ウエルシュ菌は「嫌気性」で、酸素濃度が高い場所では分裂したり元気に
活動できません。

また腸内では、他の細菌と混在しているため、必ずしもウエルシュ菌だけが
突出して増殖することはできません。

しかし、腸内フローラのバランスが崩れると、食中毒の原因になることも
あるようです。



ウエルシュ菌を含むクロストリジウム属の細菌には恐ろしい親戚がずらりと
並びます。
「クロストリジウム・ボツリヌム」、いわゆるボツリヌス菌にほかなりま
せん。
「クロストリジウム・テタニ」、破傷風菌、古来から恐れられてきました。
「クロストリジウム・ディフィシレ」、抗生物質に強く、その投与後に
他の腸内フローラが死滅すると「菌交代症」を発症し、偽膜性大腸炎などを
引き起こします。

このように、破傷風などを記すと分かりやすいかと思いますが、ボツリヌス
菌にしても実は土壌内にたくさん存在しているものの、嫌気性のため普段は
大して悪さをしないのです。

これが、真空パックのソーセージなどの中に入り込むと、活発に分裂して
毒素を作り出し、誤ってこれを摂取した人に致命的なダメージを与えてしまう
ことがある。

人間の体内でも、普通に腸内などに存在している範囲では、たいした悪さは
できませんが、傷口などからソーセージならざる筋肉、結合組織など、人間の
体内でも嫌気的な環境に近い場所に菌が感染、免疫力などが衰えていて、
これが増えてしまうと、大変なことになってしまう。

アフリカのカナリア諸島で、ちょっとした傷口からウエルシュ菌が
入り込んだと思われるスチリン氏も、普段の体調ならさっさと白血球が
食べてしまって一件落着だったと思われます。

それが、何らかの免疫バランスが崩れていて、やっかいな場所でウェルシュ
菌が繁茂し始めてしまったために、大事に至ってしまったわけです。

ウエルシュ菌は感染した部位の筋肉を壊死させながら症状が広がり、増殖
しながら毒素を撒き散らしていきます。
創傷とその排膿は強い悪臭を放つことから「ガス壊疽」と呼ばれます。
その臭いの大本は、実は<おなら>の臭さと同根のものです。

強烈な濃度で凝縮して、人間の臭覚を刺激しているもので、アフリカの島で
特殊な病原菌に感染したというわけではなく、誰もが持っている普通の
常在菌が、あらぬ身体部位で感染・繁殖したために、致死的な状況になって
しまった、というもの。

そのため、スチリン氏と同じ飛行機に乗っていた乗客乗員には、感染症と
言いながら、その伝染の心配はない、とアナウンスされたものだろうと
察せられます。



<菌の毒素も使いよう>
ボツリヌス菌同様、クロストリジウム属の嫌気性細菌は、体内のあらぬ部所に
入り込むと、とんでもない悪さをしかねません。

しかし、その性質も、制御して使えば、役に立つこともあります。

クロストリジウム属の菌同様、嫌気性の「生き物」として、ガン細胞が
あります。
ガンは私たちの通常の遺伝情報と同じものを持ちながら、その特殊な部分が
発現し、通常の呼吸を行わず、解糖系と呼ばれる「無機呼吸」で生きており、
もっぱらブドウ糖を「エサ」として暮らしていることが知られます。

このガン細胞に特化して、クロストリジウム属の細菌はアタックを仕かけると
いう性質があることから、毒素を作り出さない菌種を腫瘍に植えつけて
「食べさせ」ガンだけを退治する、という療法が研究されています。

また、ボツリヌス菌が作り出す毒素のたんぱく質は、人間の神経系に作用して
ブロックしてしまうことから、呼吸停止など致命的な症状を引き起こすことも
あります。

しかし、制御して使えば、神経系統の過緊張を和らげる効果を発揮させる
ことができます。

脳卒中や脊髄に由来する症状、神経性ジストニアなどの病気では、運動機能
障害の一つとして、脳からの命令と無関係に体が緊張してしまう「痙縮」と
いう症状が知られています。

そのような状態にある神経に、ボツリヌス菌由来の特定の毒素だけを精製、
ごく少量注入すれば、関連の神経機能の過緊張のみをブロックし、和らげる
ことから、運動機能障害の改善を企図することができます。

「ボトックス療法」として広く知られる、こうした治療法も、病原性細菌と
その生成物の細かな研究と、その性質の解明から得られたものです。

病気をただ単に病気と見て蓋をするのでなく、あくまで冷静、客観的、
サイエンティフィックで合理的なファクトに基づく地道なリサーチによって
毒も転じて薬となるという典型と言うべきでしょう。

私たちの身の回りには、目に見えない様々な生命体がひしめいており、普段は
おとなしくしていても、その性質が暴走すると、とんでもないことにもなり
かねませんし、暴走しうる性質も、制御して別の用途に用いれば、役に立つ
こともある。

こうしたすべて、一つひとつの症例、また一人ひとりの罹患者、ないし
犠牲者のカルテや、残されたデータ、さらには菌種などから得られた知見に
ほかなりません。

小さな傷でも泥で汚れたら早めに消毒、など習慣づけることで、予防効果は
高まるかと思いますが、こうしたことは医師の指示を仰ぐのが正道でしょう。

ということで、改めてスチリン氏の冥福を祈るとともに、私たち誰もが体内に
持っている常在菌で、こんな恐ろしい病気が発症し得ることを改めて認識
し直ししたいと思います。

特に子供の泥んこ遊びなど、普通に目にする状況にも、様々なリスクがある
こと。
老人など免疫が弱っている個体の不用意な創傷、消毒不足などは、時に
致命的な症状への進行があり得ること、注意したいと思います。


(筆者:伊東 乾)


http://news.livedoor.com/article/detail/14969820/




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