[コメディアン 加藤茶さん 大動脈解離(3)
「全員集合」最初は振るわず]
(読売新聞 2015年12月10日 )(一病息災)
分裂したドリフは、いかりや長介と2人だけになった。
高木ブーら3人が加わり、1965年、5人の新生ドリフが誕生した。
芸名は所属事務所の先輩で「クレージーキャッツ」のリーダー、ハナ肇が
付けてくれた。
「水に関した名がいい。お前は加トちゃんと呼ばれているから加藤茶だ」と。
「オレお茶かよ、と思ったけど、憧れの大先輩には逆らえませんでした」
ドリフは1966年、来日した「ビートルズ」公演の前座を務めた。
音楽グループだが、テレビ寄席などでお笑いの芸も磨いていった。
1969年秋、「8時だョ!全員集合」が始まった。
土曜夜は、テレビ各局の視聴率競争が特に激しかった。
当時は「コント55号」の番組が強かった。
対する「全員集合」は公開生放送。
でも、振るわなかった。
「やはりドリフじゃ無理か、なんて言われたんだ」
3か月で打ち切りと決まりかけた。
「作家の書いた作品が面白くなかった。どうせ終わるなら、僕らの好きな
ようにやらせて、と自分たちで作ったら大受けしちゃってさ」
視聴率が跳ね上がり、開始1年3か月でなんと50%を超えた。
空中の皿を撃つ「クレー射撃」を始めた。
「満点を出し、オリンピック代表候補に、なんて言われたことも
あったんだ」
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