[コメディアン加藤茶さん 大動脈解離(2) ズーズー弁で「ドリフ」に]
(読売新聞 2015年12月3日 )(一病息災)
ギタリストだった父の影響か、東京ではバンドマンをめざした。
17歳で、バンドボーイの仕事を見つけた。
トロンボーンをやりたかったが、「楽器がとても高く、安月給のオイラには
買えないのであきらめた」。
スティック2本あれば練習できるドラムに決めた。
プロのドラマーから、「捨てといて」と折れたスティックを渡されると、
削って練習した。
運良く、先輩のドラマーが教えてくれた。
半年でプロのバンドマンになることができた。
最初にもらった給料で、母と妹を呼び洋食屋に行った。
「2人においしい物を食べさせたくて、頑張ってきた……。鶏の料理を3人で
泣きながら、食ったんだ」
バンドを移るたびにギャラが上がる慣例があった。
3つ目に入ったのが「ザ・ドリフターズ」だった。
19歳。
面白いズーズー弁をしゃべる若者として楽屋で人気があったので、スカウト
されたという。
当時のドリフはジャズ喫茶などで演奏していた。
同じ年に入っていたのが、一回り年上の、いかりや長介。
2年後、新リーダーのいかりやに反発して、4人が脱退した。
残ったのは、いかりやと2人だけ。
「オイラも脱退組について行こうと思ったが、長さんに『お前が残れば何とか
やれる。頼むわ』と説得されて残ることにしました」
まだ若く、どんな無理をしても疲れ知らずだった。
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