「会社を辞めてぜんざい屋でもしたい」と妻に打ち明けた松下幸之助

[松下幸之助が94歳まで続けた日本人らしい健康法]

(DIAMOND  2015年11月12日)
(長寿の食卓~あの人は何を食べてきたか~ 樋口直哉/小説家・料理人)


1917(大正6)年の出来事である。
1人の男が「会社を辞めてぜんざい屋でもしたい」と妻に打ち明けた。
大の甘党の彼は好きなぜんざいで商いをしてみたいと考えたのだ。
だが妻から「あなたに水商売は向きませんよ」と諭した。

ぜんざい屋になることを諦めた彼が次にとり組んだのが電球ソケットの改良
だった。
そうして出来上がった試作品を勤め先に持ち込むも、相手にされない。

のちに「このソケットは一利一害で全くの失敗であったことがわかった」の
だが、彼はこのソケットを製造して見返してやろう、と独立を決意。
サラリーマン生活から足を洗い、経営者への道を歩みはじめる。

男の名は松下幸之助。
松下電器産業、現在のパナソニックを一代で築き上げた大経営者である。
後年、経営の神様と呼ばれ歴史に名を残す松下幸之助はこの時、妻に止められ
なければぜんざい屋のおやじになっていたのかもしれない。

日本の経営者に長寿者は多いが、松下幸之助の94歳も立派である。

もともと体が弱い幸之助は、何度も重い病気を患った。
不眠症にも悩まされ、睡眠薬を手放せなかった。
そんな生活故に幸之助は健康には人一倍、気を使っていたようだ。

『松下幸之助 経営の神様とよばれた男』を著した北康利氏は「彼は粗食で
ある。それが長寿の秘訣だったのかもしれない」と書いている。
「『健康法は?』と聞かれて、『一汁三菜』と答えた」こともあるという。

甘党故に酒を飲まなかったのもよかったのかもしれない。
また、喫煙習慣もなかった。

こんなエピソードがある。
米国訪問の折、その繁栄ぶりに目を見張りながらも食事時、かの地でヒラメを
注文したが、味がしない。
ところが周りを見ると米国人たちは喜んで食べている。
幸之助はヒラメの味を知らないアメリカ人を可哀想だと思いながらもこんな
風に考えた。

「日本人は長い歴史のあいだに、食事ひとつにも非常に繊細な考え方を
生み出しましてね(中略)これを再認識しないといかんなと。みずから欠点を
知ることも必要やけど、みずからの誇り、みずからの長所もね、これまた
再認識しないともったいない」

日本は欧米に追い付け、追い越せと見習ってきた。
このところの経済的な停滞はそろそろ足元を見直すいい機会なのかも
しれない。

松下政経塾の創設など評価が分かれる成果もあるが「共存共栄」に代表される
松下幸之助に学ぶのもいい。
日本的経営と一汁三菜。どちらも日本のよさがある。
経営の神様といわれる幸之助だが、意外と人間的なエピソードも多い。
幸之助は神様などではなく、戦後の時代を力強く生き抜いた日本人なのだ。


幸之助が1989(平成元)年に亡くなった後、残された妻はその4年後、
幸之助と同じ病院で死去する。
享年97(歳)。
夫婦揃っての長寿者だった。




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