地方病 (山梨県における日本住血吸虫症)

[地方病 (山梨県における日本住血吸虫症)]

(Wikipedia)


本項で解説する地方病とは、「山梨県における日本住血吸虫症」の呼称で
あり、長い間その原因が明らかにならず住民を苦しめた感染症である。
ここではその克服・撲滅に至る歴史について説明する。


この疾患は住血吸虫類に分類される寄生虫である日本住血吸虫の寄生によって
発症する寄生虫病であり、ヒトを含む哺乳類全般の血管内部に寄生感染する
人獣共通感染症でもある。

病名および原虫に日本の国名が冠されているのは、疾患の原因となる病原体
(日本住血吸虫)の生体が、世界で最初に日本国内(現:山梨県甲府市)で
発見されたことによるものであって、日本固有の疾患というわけではない。


日本住血吸虫症は中国、フィリピン、インドネシアの3カ国を中心に年間
数千人から数万人規模の新規感染患者が発生しており、世界保健機関
(WHO)などによって2014年現在もさまざまな対策が行われている。


日本国内では、1978年に山梨県内で発生した新感染者の確認を最後に、
それ以降の新たな感染者は発生しておらず、1996年の山梨県における終息
宣言をもって日本国内での日本住血吸虫症は撲滅されている。
日本は住血吸虫症を撲滅、制圧した世界唯一の国である。

日本国内での日本住血吸虫症流行地は大きく分けて次の地域であった。
 ・山梨県甲府盆地底部一帯
 ・利根川下流域の茨城県・千葉県
 ・中川流域の埼玉県
 ・荒川流域の東京都の一部
 ・富士川下流域東方の静岡県浮島沼(沼川)周辺の一部
 ・芦田川支流、高屋川流域の広島県深安郡旧神辺町片山地区
     および隣接した岡山県井原市の一部
 ・筑後川中下流域の福岡県および佐賀県の一部


上記のうち甲府盆地底部一帯、広島片山地区、筑後川中下流域の3地域が
日本住血吸虫症の流行地として特に知られていた。

中でも甲府盆地底部一帯は日本国内最大の罹病地帯(以下有病地と記述)で
あり、この病気の原因究明開始から原虫の発見、治療、予防、防圧、終息
宣言に至る歴史の中心的地域であった。


当疾患の正式名称は日本住血吸虫症であるが、山梨県では官民双方広く
一般的に「地方病」と呼ばれている。
原因解明への模索開始から終息宣言に至るまで100年以上の歳月を要する
など、罹患者や地域住民をはじめ研究者や郷土医たちによる地方病との闘いの
歴史は山梨県の近代医療の歴史でもある。


この項目では甲府盆地における地方病撲滅の経緯を記述する。



<甲府盆地の奇病>
明治20年代の初め頃には、甲府盆地の地元開業医の間で「地方病」と称し
始めていたことが各種資料文献などによって確認することができる。

医学的に「日本住血吸虫症」と呼ばれるようになったのは、病原寄生虫が発見
され、病気の原因が寄生虫によるものであると解明されてからのことである。

しかし、山梨県内では病原解明後も今日に至るまで、「地方病」という言葉は
一般市民はもとより行政機関等においても使用され続け定着しており、
一般的には風土病を指す普通名詞である「地方病」という言葉は、「日本住血
吸虫症」を指す呼称として山梨県内地域限定の固有名詞と化している。


<水腫脹満>
腹部が大きく膨らむ特徴的な症状から古くは水腫脹満、はらっぱり、などと
呼ばれていた「地方病」は、以下に示す史料文献中の記述により、少なくとも
近世段階にはすでに甲府盆地で流行していたものと考えられている。


地方病に罹患した患者の多くが初期症状として発熱、下痢を発症するが、初期
症状だけの軽症で治まるものもいた。
しかし、感染が重なり慢性になった重症の場合、時間の経過とともに手足が
痩せ細り、皮膚は黄色く変色し、やがて腹水により腹部が大きく膨れ、介護
なしでは動けなくなり死亡した。

今日の医学的見地に当てはめると、肝臓などの臓器に寄生虫(日本住血
吸虫)の虫卵が蓄積されることによる肝不全から肝硬変を経て、罹患者の
血管内部で次々に産卵される虫卵が静脈に詰まって塞栓を起こすことにより、
逃げ場を失った血流が集中する門脈の血圧が異常上昇する。
その結果、門脈圧亢進症が進行し、腹部静脈の怒張(腹水の原因)を起こし、
最終的に食道静脈瘤の破裂といった致命的な事態に至る。
これら種々の合併症が直接の死因である]。

また、肝硬変から肝臓がんへ進行するケースも多く、さらに肝臓など腹部の
臓器だけでなく血流に乗った虫卵が脳へ蓄積する場合もあり、片麻痺、
失語症、けいれんなどの重篤な脳疾患を引き起こすこともあった。


甲斐国(現:山梨県)の人々は、腹水が溜まり太鼓腹になったら最後、回復
せず確実に死ぬことを、幼い頃から見たり聞いたりしていた。

また、発症するのは貧しい農民ばかりで、富裕層に罹患する者がほとんど
なかったことから、多くの患者が医者に掛かることなく死亡したものと推察
されている。

地方病の感染メカニズムを知識として知ることのできる現代の視点から
見れば、農民ばかりが罹患した理由も明らかである。
しかし、近代医学知識のなかった時代の人々にとっては原因不明の奇病で
あり、小作農民の生業病、甲府盆地に生まれた人間の宿命とまで言われて
いた。



<宮沢村と大師村からの離村>
1874年(明治7年)11月30日、甲府盆地の南西端に程近い宮沢村と大師村
(現:南アルプス市甲西工業団地付近)との2村の戸長を兼ねていた西川
藤三郎は、両村の計49戸の世帯主を招集し離村についての提案を行った。

同村付近は甲府盆地でも最も標高の低い低湿帯で、水腫脹満、すなわち
地方病の蔓延地であった。
当時この奇病の原因は解明されてはいなかったが、標高の高い高台の村々では
この病気がほとんど発生していないことを農民たちは知っていた。
先祖代々住み慣れた家や田畑を捨て新たに開拓から始めるのは辛いが、この
ままでは村は全滅してしまう、と苦渋の決断をした。

明治維新からまだ間もないこの頃は、居住地を捨てるなどということが許され
ない封建制度から抜け出せない時代であり、一村移転などという住民運動が
認められるわけはなかった。

それに対し身近な人々が次々に奇病に苦しみ死んでいく凄惨な状況に村人の
離村への決意は固く、離村陳情書を毎年根気強く提出し続けた。

明治新政府に村人の願いが通じ、村の移転が聞き入れられたのは30数年も経過
した明治末年のことであった。


日本国内において、地方病に限らず風土病を理由に村ごと移転したのは、
2014年現在でもこの1例のみである。

発症頻度の差こそあれ地方病は甲府盆地の隅々に蔓延しており、甲府盆地に
暮らす農民の多くは正体が分からず目に見えない地方病の恐怖に脅えながら
暮らしていた。



<原因解明へ向けた取り組み>
長文なので詳細はWikipedia参照。



<ミヤイリガイ(宮入貝)の発見>
中間宿主探しが始まった。

本住血吸虫の中間宿主が立証確定されたのは1913年(大正2年)夏のことで
ある。
九州帝国大学の宮入慶之助と助手の鈴木稔が、佐賀県三養基郡基里村酒井地区
(現:鳥栖市酒井東町)で発見した、体長8ミリほどの淡水産巻貝での立証で
あった。



<疫学調査>
1910年〜1911年、山梨県医師会が主体となって健康診断および臨床検査が
行われ、甲府盆地全体における地方病の発生状況、罹患者の実数が初めて
統計的、医学的に調査された。
初めて行われたこの調査により、罹患率の高い地域に偏りがあることも
分かった。

罹患率が異常に高かったのは、「竜地、団子に嫁行くなら・・・」と歌われた
登美村(とみむら)の55%をはじめ、「中の割へ嫁行くなら・・・」と
歌われた旭村の35%、および大草村の34%、「嫁にはいやよ野牛島は・・・」
と歌われた御影村(みかげむら)の40%など、古くから人々の間で歌われて
いた特定の地域での流行を実証するものであった。

塩山、勝沼(現:甲州市)など甲府盆地の最東部では病気が一切なく、
春日居、石和へと盆地を西へ向かうにつれ徐々に病気が現れ、甲府を過ぎた
甲府盆地の西側から一気に罹患率が上がり、特に韮崎から下流の釜無川両岸
地域の罹患率が高いことも改めて実証された。
この甲府盆地内での西高東低ともいえる有病地の偏は流行末期まで続いた。


大正期には、甲府盆地各地の有病地水田において、少ない所でも1平方
メートルあたり100匹は採取でき、ひどい場所になるとミヤイリガイが何
層にも重なり、竹ぼうきで掃いてちりとりに集められるほどであった。

また、ミヤイリガイは日当たりの悪い草屋根の上にまで登り生息し、最も
ひどい地域になると炊事場の窓枠にまでびっしりとミヤイリガイが群がって
いたという。

このようにミヤイリガイは水陸両生かつ行動範囲が広く、水中だけに生息する
とは限らなかった。


大正末期から昭和初期にかけ、新たな言葉、ことわざが再び甲府盆地の人々の
口から出始めた。
「朝露踏んでも 地方病」
ミヤイリガイの生息濃厚地域では、草むらを素足で歩いただけで感染して
しまう恐ろしさに、農民はなすすべもなかった。



<ミヤイリ貝殺貝活動>
ミヤイリガイ殺貝に新たな動きが起きたのは、内務官僚出身の本間利雄が
山梨県知事に就任した1924年(大正13年)であった。
本間の前任地は広島県で、前職は広島県警察の部長であったが、それ以前にも
広島県職員の一人として、深安郡川南村片山地区の有病地(片山有病地)に
おけるミヤイリガイ撲滅事業に関わっており、現地で行われた石灰散布による
殺貝効果を熟知していた。

石灰を利用した殺貝方法は、経皮感染の解明者でもあり、広島における日本
住血吸虫症研究の第一人者になっていた京都帝国大学の藤浪鑑によって考案
された。
藤浪は大学の研究室でミヤイリガイを飼育し、さまざまな薬剤の検討を行った
結果、生石灰が条件を満たす殺貝剤になると判断した。

生石灰(酸化カルシウム)は水によく溶ける粉末の物質である。
有病地の水の量を100とした場合、生石灰を1から2の割合、すなわち
1〜2%にすれば、生石灰がミヤイリガイの体表面を覆って貝の体内に
入り込み、神経系統を麻痺させ呼吸困難に陥らせることによって、24時間
以内に90%以上のミヤイリガイを殺せることが分かった。
しかも石灰は日本国内で産出、精製、製造されており、他の薬剤等と比較して
価格的にも安価であった。

片山有病地(広島)では、1918年から4年間にわたり生石灰合計1995トンを
使用した殺貝活動が行われ、片山有病地ではミヤイリガイの姿がほとんど
見られなくなるという目覚しい効果を得た。

広島と山梨での大きな違いは有病地の面積であった。
甲府盆地の有病地面積は片山有病地の面積の16倍強である。
石灰散布作業が並大抵ではないことは、広大な甲府盆地の有病地を目の
当たりにした藤浪自身も「尋常なことではない」と痛感していた。

しかし、それでも行動を始めなければ何も変わらないと、山梨県では1925年
(大正14年)に生石灰の散布が決定された。
1924年(大正13年)から1928年(昭和3年)にわたる5年間の地方病撲滅
対策費用166,379円のうち、約8割に当たる131,943円が寄附金であったこと
からも、住民の地方病撲滅への願いの強さが分かる。


こうして行政と地域住民によるミヤイリガイ撲滅活動は終息宣言が出される
まで70年以上継続されていくことになり、生石灰から石灰窒素の散布へ、
アセチレンバーナーによる生息域への火炎放射、アヒルなど天敵を使った
捕食、PCP(有機塩素化合物ペンタクロロフェノールナトリウム)による
殺貝、用水路のコンクリート化など、あらゆる手段を駆使してミヤイリガイ
撲滅、地方病の根絶という最終目標に向け、親から子へ、子から孫へと世代を
越え引き継がれていった。



<感染者減少の複合要因>
・水路のコンクリート化
・水田から果樹園への転換
・水田から工業地帯や宅地への転換
・農業の機械化(農作業用家畜の減少)
・自然肥料から化学肥料への転換
・合成洗剤の普及と垂れ流し



<合成洗剤の普及と垂れ流し>
昭和40年代当時はまだ合成洗剤の規制や制限が行政から指導されておらず、
また下水道の普及も遅れていた甲府盆地では、合成洗剤を含んだ排水はいわば
垂れ流し状態であった。
本来であれば非難される垂れ流しも、こと日本住血吸虫に対しては怪我の功名
ともいえる。

実際に、久留米大学教授の塘普が1982年に行った実験によると、一般家庭で
使われる濃度0.14〜0.25%の合成洗剤溶液にセルカリアを投じると5分以内に
全て死滅し、さらに溶液を100倍に薄め同様に試しても、セルカリアは24時間
以内に全て死滅することが実証されている。



<115年目の終息宣言>
甲府盆地では、1978年に韮崎市内で発生した1名の急性日本住血吸虫症
感染の確認を最後に、これ以降の新たな感染者の発生は確認されなくなった。

ミヤイリガイも撲滅こそされていないものの、セルカリアに感染・寄生された
個体は同時期以降には発見されなくなり、ヒト以外の哺乳動物の感染も
1983年のノネズミでの感染確認を最後に発見されなくなった。

1985年には、虫卵抗原に対する抗体陽性者(皮内反応検査)の平均年齢が
60.6歳に達するなど、保卵者数の低下および抗体陽性者の年齢構成の高齢化
から、甲府盆地における日本住血吸虫症(地方病)の流行は、1980年代
前半頃に終息したものと今日では考えられている。

その後の1990年から3年間に及ぶ、甲府盆地の小中高生児童生徒4,249名を
対象にした ELISA検査法による集団検診でも、感染者は1人もおらず全員
陰性であった。


こうした経緯を経て、山梨県知事の諮問機関である山梨地方病撲滅対策促進
委員会は、「新たな感染による地方病患者が1978年以降発生していない」
こと、「感染したミヤイリガイが1977年以降発見確認されていない」こと
などを根拠に、1995年11月15日、「山梨地方病の流行は終息し安全である」
旨の中間報告書を同県知事に提出し、1996年2月13日の山梨県議会に
おいて、「ミヤイリガイは依然生息するものの、再流行の原因となる可能性は
ほとんどない」と答申・議決され、山梨県県知事天野建は地方病終息宣言を
行った。

1881年(明治14年)8月27日の旧春日居村からの嘆願に始まった地方病
問題は、1996年2月19日、実に115年目にして終息を迎えた。
こうして、古くから謎に包まれていた地方病(日本住血吸虫症)は多くの
医師・研究者の努力により病原の解明、感染メカニズムの解明が行われ、
世代を超えた多くの人々の努力により日本国内での日本住血吸虫症は制圧・
撲滅された。


しかしその一方で、なぜミヤイリガイが甲府盆地をはじめとする限られた
地域にのみ生息していたのかという疑問は解明されていない。
生物学、遺伝学、地質学、気象学、地理学など、あらゆる観点からの研究が
行われているが、依然として大きな謎のままである。



<再流行の可能性>
日本住血吸虫は撲滅されたが、中間宿主であるミヤイリガイが山梨県内で
完全に撲滅されたわけではない。
可能性は低いものの、中間宿主であるミヤイリガイが存在する限り、日本住血
吸虫症は起こり得る。

輸入ペットや外国人保卵者など輸入感染による再流行(再興感染症)の
危険性も指摘されている。

山梨県では2010年現在もミヤイリガイの生息調査や監視活動が、住民や行政
から受託した民間企業などによって定期的に行われている。

さらには小中高生を対象とした地方病の集団検診も引き続き行われている。


なお、2011年現在も日本国内の複数の大学や研究施設などでミヤイリガイは
産地別に飼育されており、日本国内の自然界では撲滅された日本住血吸虫の
本体も、厳重な管理の下、ミヤイリガイと終宿主役となる哺乳実験動物と共に
飼育され、人為的に生活環が再現継続され継代維持されている。
これは万一の再流行に備え、前述した皮内反応診断に必要な抗原を製造する
ために、日本住血吸虫の本体が不可欠だからである。





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