[川合稔]
(Wikipedia)
川合稔(1942年〜 1970年8月26日)は、東京都大田区出身のレーシング
ドライバー。
日本大学芸術学部演劇学科中退。
1965年にレースデビュー。
両親に反対されたため、陸送のアルバイトをしながらレースに出場していた。
日本大学芸術学部演劇学科を中退後、トヨタ・モータースポーツ・クラブ
(TMSC)の事務局で働き、1966年にトヨタ自動車販売(トヨタ自販)の
ワークスドライバーとして契約。
S800や1600GTなどに乗ってツーリングカーレースで活躍する。
下積みの期間が長かったが、1968年11月の第1回ワールドチャレンジ
カップ・富士200マイルレース(通称「日本Can-Am」)では、プロト
タイプのトヨタ・7に乗るチャンスを得て、決勝は9位完走。
この好走が評価され、1969年にはトヨタ自動車工業(トヨタ自工)の
ワークスチーム(チーム・トヨタ)に昇格する。
当時のトヨタでは自販ワークスが2軍、自工ワークスが1軍扱いとされ、
川合は2月のテスト中に事故死した福澤幸雄に代わる新戦力として期待
された。
トヨタ・7に乗り1969年4月の鈴鹿500kmレースで優勝、10月の日本GPでは
序盤トップを走行し、トヨタ勢最上位33位を獲得。
11月の第2回ワールドチャレンジカップ・富士200マイルレースで優勝し、
チーム・トヨタのエースドライバーの地位を得る。
プライベートでは小川ローザと交際し、1970年2月に結婚。
1970年は日本GPの中止決定後、アメリカのCan-Amシリーズ参戦を目指して
トヨタ・7ターボの開発テストを続けた。
結婚半年後の8月26日、鈴鹿サーキットで行われたテスト中にヘアピン手前の
110Rコーナーでコースアウトし、コースサイドの溝に落下。
川合はマシンから投げ出され、病院に搬送されたが死亡した。
享年27。
事故地点はヘアピンに向けて減速しながら曲がる右カーブだったが、急
ブレーキをかけた跡のブラックマークがコースサイドまでまっすぐに伸びて
いた。
マシントラブルでスロットルが戻らず、減速できないままコースアウトしたの
ではないかと見られている。
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事故の考察は、黒井尚志著「レーサーの死」に詳しいです。
当時、トヨタは日産(旧プリンス自動車)に対してレーシングマシンの開発が
相当遅れており、開発挽回を急ぎ過ぎたのではないかと考えられています。
(横山歯科医院・横山哲郎)
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