マラリアとみられる熱病で没した平清盛

[歴史上の人物を診る:マラリアとみられる熱病で没した平清盛]

(メディカル朝日2011年8月号)
(日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授 早川智先生)


平清盛(1118〜1181年)


日本でも西洋でも、従来の権力構造を打ち破り、新しい時代を作った人物は
しばしば独裁者として悪役にされる。
平安末期、武家として初めて太政大臣となり、江戸時代まで700年続く武
家政治を開いた平清盛もその一人であろう。
有名な『平家物語』の冒頭では、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の
安禄山とならぶ謀反人にされている。
実際には、外祖父として権力は握ったものの、天皇家自体に取って代わろうと
する意図はなかったようである。



<平家の棟梁>
平清盛は中級公家であった平忠盛の長男として、1118年に生まれた。
保元・平治の乱で源氏をおさえ、絶大な武力と経済力を背景に中央政界に
進出。
1167年に太政大臣となり、娘の徳子を高倉天皇の后とした。
さらに徳子の生んだ幼い安徳天皇を即位させ、一族を高位高官につけて
西国30余国を知行国とし、500の荘園と大輪田泊(神戸港)による貿易を
独占した。

しかし、晩年には彼と一門の強権政治に朝廷や公家が反感を持ち、各地で
源氏が挙兵するさなか、熱病で死去した。

『平家物語』巻第六では「入道相国、やまひつき給ひし日よりして、水を
だにのどへも入給はず。身の内のあつき事、火をたくが如し。(中略)
比叡山より千手井の水をくみくだし、石の舟にたゝへて、それにおりて
ひへたまへば、水おびたゝしくわきあがて、程なく湯にぞなりにける」と
ある。
高熱を癒すために水風呂に入れるとお湯になったというのである。

平家物語はフィクションであり、たぶんに脚色されているが、右大臣九条兼実
(1149〜1207年)は『玉葉』で「治承5年2月27日 禅門(清盛)頭風を
病むと云々」「閏二月三日 禅門の所悩、殊に進み」「四日 夜に入り伝へ
聞く、禅門薨去す」とした。

藤原定家(1162〜1241年)も『明月記』で「去る夜戌の時(午後8時)、
入道前太政大臣已に薨ずるの由、所々より其の告げあり。或は云ふ、臨終動熱
悶絶の由」と記した。

高熱の原因としては、肺炎(服部敏良)、脳出血により視床下部性発熱
(大坪雄三)などの説もあるが、最も受け入れやすいのはマラリア説
(橋本雅一、吉川英治)である。



<マラリア 日本でも>
マラリアは古代より知られる原虫感染症である。
熱帯熱マラリア、三日熱マラリア、卵形マラリア、四日熱マラリアの主に
4種類があり、特に熱帯熱マラリアは重症になりやすい。
熱発作が主症状で、悪寒や震えを伴った1〜2時間の発熱期の後、高熱が
4〜5時間続く。
この時に頭痛や吐き気を伴い、重症例では意識混濁がある。
熱発作のパターンは初期には不規則であるが、熱帯熱マラリア以外は、
マラリア原虫の生活パターンに一致した規則的な熱型になってゆく。

マラリアは熱帯病であるが、かつて広く温帯に分布した。
日本でも8世紀初頭の大宝律令で「瘧」として、10世紀の『倭名類聚鈔』に
「衣夜美」「和良波夜美」の名で記載されている。
戦前には沖縄、九州のみならず、本州での発症もまれでなかったが、公衆
衛生の向上により1962年以降の国内報告はない。

マラリアに対してはなかなか有効なワクチンができない。
マラリアの抗原性が頻繁に変異し、複数の抗原性を持ったタイプが同時に
感染する。
加えて、原虫自体が宿主の免疫学的拒絶をエスケープするため、抑制性
サイトカインや制御性T細胞を誘導する。
一方で、高熱を伴う症例ではTNF−α、IFN−γなどTh1に加え、IL−6、
IL-10などのTh2サイトカインも上昇して、いわゆる「サイトカインの嵐」
が起きる。



<最大のライバルも>
享年64の生涯を後白河院や、摂関家、ライバル源氏との戦いに明け暮れた
武家の棟梁にとって、畳の上の死とはいえ、吾が身のうちの修羅道で迎えた
最期であった。

さらに、最大のライバルだった後白河法皇も数年後に同じ病で生命を落とす
ことになる。




http://www.asahi.com/health/rekishi/TKY201206190192.html





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