足尾鉱毒事件

[足尾鉱毒事件]

(Wikipedia)


足尾鉱毒事件は、19世紀から21世紀の栃木県、群馬県の渡良瀬川周辺で
起きた足尾銅山の公害事件。
明治時代後期に発生した日本の公害の原点である。
足尾銅山鉱毒事件と表記される場合も多い。

原因企業は古河鉱業(現在の古河機械金属)。

過去の事件と認識されがちであるが、2012年現在も鉱毒物質の流下は続いて
おり、決して過去の事件ではない


<鉱毒公害の発生>
鉱毒ガスやそれによる酸性雨により足尾町(当時)近辺の山は禿山となった。
木を失い土壌を喪失した土地は次々と崩れていった。
この崩壊は2009年現在も続いている。

崩れた土砂は渡良瀬川を流れ、下流で堆積した。
このため、渡良瀬川は足利市付近で天井川となり、足尾の山林の荒廃とともに
カスリーン台風襲来時は洪水の主原因となった。

鉱毒による被害はまず、1878年と1885年に、渡良瀬川の鮎の大量死という
形で現れた。
ただし、当時は原因が分かっておらず、これを8月12日に最初に報じた朝野
新聞も、足尾銅山が原因かもしれないというような、あいまいな書き方をして
いる。
1885年10月31日、下野新聞が前年ごろから足尾の木が枯れ始めていることを
報じ、これら2つが足尾銅山と公害を結びつける最初期の報道と考えられる。



<被害の拡大>
次に、渡良瀬川から取水する田園や、洪水後、足尾から流れた土砂が堆積した
田園で、稲が立ち枯れるという被害が続出した。
これに怒った農民らが数度に渡り蜂起した。
田中正造はこのときの農民運動の中心人物として有名である。

なお、この鉱毒被害の範囲は渡良瀬川流域だけにとどまらず、江戸川を経由
し行徳方面、利根川を経由し霞ヶ浦方面まで拡大した。
田畑への被害は、特に1890年8月と1896年7月21日、8月17日、9月8日の
3度の大洪水で顕著となった。

1892年の古在由直らによる調査結果によれば、鉱毒の主成分は銅の化合物、
亜酸化鉄、硫酸。


1901年には、足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村となった。
このほか、松木村に隣接する久蔵村、仁田元村もこれに前後して同様に廃村と
なった。


対策の節で述べる工事が1897年から1927年にかけて行われると、表だった
鉱毒被害は減少した。

しかし、渡良瀬川に流れる鉱毒がなくなったわけではなかった。
他の地域と異なり、渡良瀬川から直接農業用水を取水していた群馬県山田郡
毛里田村(現太田市毛里田)とその周辺では、大正期以降、逆に鉱毒被害が
増加したと言われる。
1971年には毛里田で収穫された米からカドミウムが検出され出荷が停止
された。
古河鉱業はカドミウム被害は認めていないが、群馬県がこれを断定した。



<閉山>
1973年までに足尾の銅は掘りつくされて閉山、公害は減少した。
ただし、精錬所の操業は1980年代まで続き、鉱毒はその後も流されたと
される。
1989年にJR足尾線で貨物が廃止になると、原料鉱石の搬入量が減少し、
鉱毒はさらに減少したとされる。

1899年の群馬栃木両県鉱毒事務所によると、鉱毒による死者・死産は推計で
1064人。
これは、鉱毒被害地の死者数から出生数を単純に減じたものである。
松本隆海は、すべてが鉱毒が原因だとはいえないかもしれないが、当時の
日本は出生数のほうが多いにもかかわらず、死者数のほうが多いのは、鉱毒に
関連があるとしている(実際には、鉱毒が原因で貧困となり、栄養状態が悪化
して死亡した者が多く含まれていると考えられるが、田中正造や松本は
これらも鉱毒による死者とすべきだとしている)。
この数値は、田中正造の国会質問でも使用された。

鉱毒激甚地であった当時の安蘇郡植野村字船津川地区(現佐野市船津川町)の
死産率は明らかに全国平均を超えていることも鉱毒事務所は指摘している。
松本隆海は、『足尾鉱毒惨状画報』(1901年)で、安蘇郡界村字高山
(現佐野市高山町、当時の人口約800人)で、5年間で兵役合格者がわずか
2名しか出ておらず(適齢者は延べ50名)、しかも、その合格者のうち1名も
入隊後10日で病気で除隊となったという逸話を紹介している。



<東日本大震災>
2011年3月11日、1958年に決壊した源五郎沢堆積場が再び決壊。
鉱毒汚染物質が再度渡良瀬川に流下した。
同日発生した東北地方太平洋沖地震が原因と思われるが、詳細は不明である。
この際は、下流の農業用水取水地点において、基準値を超える鉛が検出
された。
また、堆積場と渡良瀬川の間にあるわたらせ渓谷鉄道の線路が破損。
同鉄道は運休を余儀なくされた。





カテゴリー: き金属アレルギー, ドクターハウス(Dr.HOUSE) タグ: , パーマリンク